こつつみ

コツコツ積み上げる

組み込みエンジニアからクラウドエンジニアになります

あんた誰?

新卒3年目のメーカー企業で通信関係の組み込みソフトウェアエンジニアしている uesho です!

この一年は、設計・実装・テストと一貫して開発に携わってきた。

kotsutsumi.hatenablog.com

上の記事でも書いたが、会社以外でも全部中途半端だけど、Webやクラウド自宅サーバーなど色んな分野の技術に触れてきた。 その中でも、自分は将来性や自分の興味が湧いたクラウドにいきたいと考えていた。

クラウドエンジニアになる

2021年5月に面接を受けて社内転職を試みた。その結果、7月から正式に配属されることが決まった。

クラウドエンジニアになれるのだ。そして、その部署はコードも書く機会が多いとのこと。 一番希望していた部署に行くことができた。

AWS SAAの資格をとって、自分は意欲がある人物であるとアピールできたのが大きいと思う。

クラウドエンジニアになると言ったが、実際に実務では使ったことないし、個人でしか使ったことがない。

配属されることが目的ではなく、そこ、いや市場で結果を出すことが目的だ。

クラウドも設計も実装も一貫してできる人材になる。技術だけではなく、ドメイン知識もコミュニケーションも全部できるようになりたい。

何か捨てて極めるのではなく、全部極めたい。興味の赴くままに。

ここが始まりという意識を持って進んでいきたい。

なぜ人に相談できないのか

自分は人に全然相談しない。進路を決めるときも、好きな人ができたときも、就活も全部1人で決めた。

これだけ聞くと良いように感じる。しかし、予備校とかで分からない問題があっても答え見て自己解決する。チューターの人には一回も聞きに行ったことがない。 答え書いてあるのに聞きに行く意味がわからなかった。振り返ってみると相談している人の方が良い大学に行っている印象を持った。

議論すると言うことが自分の理解が進んだんだろう。自分は何となく分かった気になっていただけだった。

相談しないが最近は「なんで相談できないんだろう?」と考えることが増えてしまった。相談したいのだ。

と言うのも、客観的に見て相談している人の方がキラキラして見えたのだ。自分が嫉妬していることに気づいたのだ。

何で相談できないのか、自分なりに考えてみた。他にも意見が欲しいので、こんなブログを見てくれた人は是非コメントが欲しい。

  • 2人で話すことが少ない (複数でいると話す必要がないなと思ってしまう)
  • 自分に自信がない (相手にどう思われるか不安) (こんなしょうもない質問するなとか思われそう?)
  • コミュ障で話が上手くない (これは経験を積むしかない...)
  • 外部と深い関わりを自ら絶っている (壁を作っているのかもしれない)
  • 相談しないから、相談されないのループ
  • 自分で解決しようとする (これが小学校とかから染み付いている)

まずは、自分の話を全くしていないので少しずつ自分の話をしていきたい。(slackの自分のチャンネルを有効活用していきた)

パッケージ設計(コンポーネント)の原則

これは「アジャイルソフトウェア開発の奥義」の第4部の第20章のまとめである。

興味ある方は買った見て読んでみることをオススメする。

自分は第一版を買ったが、今なら第二版を買うのが良いだろう。

アジャイルソフトウェア開発の奥義

パッケージ内部の凝集度に関する3つの原則

1. 再利用・リリース等価の原則 (REP : Reuse-Release Equivalency Principle)

再利用の単位とリリースの単位は等価になる

再利用の単位(パッケージ)が、リリースの単位より小さくなることはない。 つまり、再利用されるものはリリース番号を割り当てて、それをトラッキングもされなければならない。

再利用できると主張するだけでは現実的でない。 再利用を再現するには、トラッキングシステムが整備され、それによってそのユーザーが潜在的に必要とする連絡、安全性、サポートを保証できなけばならない。

ソフトウェアが再利用される場合は、その目的を果たすために人間にとって都合の良いように構造化される。 つまり、パッケージの内部は、それを再利用する可能性のある人の視点に立って構造化されなければならない。 したがって、再利用されるソフトウェアを含むパッケージには、再利用されないソフトウェアを入れるべきではない

ユーザーがパッケージを再利用するとき、必要になるはその一部のクラスだけで、他のクラスは全く役に立たないというのは望ましくない。

2. 全利用の原則 (CRP : Common Reuse Principle)

パッケージに含まれれるクラスは、全て一緒に再利用される。つまり、パッケージに含まれるいずれかのクラスを再利用するということは、その他の全てのクラスも再利用することを意味する

クラスが単独で使われることはほとんどない。

どのクラスを一緒のパッケージに含めるべきか、ということだけでなく、同時にどのクラスを一緒のパッケージに含んでいけないのかも教えてくれる。

互いに強い関係性を持たないクラスを同じパッケージにまとめるべきではないと主張している。

3. 閉鎖性共通の原則 (CCP : Common Closure Principle)

パッケージに含まれるクラスは、みな同じ種類の変更に対して閉じているべきである。 パッケージに影響する変更はパッケージ内の全てのクラスに影響を及ぼすが、他のパッケージには影響しない。

これは、単一責任の原則(SRP)のパッケージ版と言える。

ほとんどのアプリケーションは再利用性より保守性の方が重要とされる。

アプリケーションコードをどうしても変更しなければならないのなら、変更箇所がたくさんのパッケージに またがっているよりも、一つのパッケージにまとまっていて欲しいと願うだろう。 変更箇所が一つのパッケージに集中していれば、再リリースは変更されたパッケージだけで済むからだ。 もちろん、変更されたパッケージに依存していない他のパッケージは再評価や再リリースをする必要がない。

CCPは「オープン・クローズドの原則 (OCP)」と密接な関係がある。OCPの言葉では、クラスの修正に対して閉じ、拡張に対しては開いているべきということである。 しかしながら、完璧な閉鎖を達成するのは不可能であり、したがって閉鎖は戦略的に行わなければならない。つまり、最もありがちな変更に対してシステムが閉じるように設計するのだ。

CCPはこのことをさらに強調し、同じ理由で修正されるクラスは一つのパッケージにまとめるべきだと主張している。 こうすることで、仕様変更があった場合でも、その影響を受けるパッケージの数を最小限にすることができる。

安定性 : パッケージ同士の結合度に関する原則

1. 非循環依存関係の原則 (ADP : Acyclic Dependencies Principle)

パッケージ依存グラフに循環を持ち込んではいけない。

コードを部分的に動くようにして安心したのは束の間、全体では動かなくなっているという経験があるだろう。 規則を守らない開発チームが、安定したバージョンのプロジェクトをビルドすることができずに何週間も時間を浪費してしまうことは珍しくない。 誰もが、誰かが行った変更を使ってコードが動くように変更を重ねるからだ。

この問題に対処する2つの対策方法が考え出された。それが「ウィークリービルド」と「 非循環依存関係の原則 (ADP)」だ。

  • ウィークリービルド

中規模のプロジェクトで一般的な手法だ。 週の最初の4日日間は全ての開発者がお互いの存在を無視する。それから、金曜日に全ての変更を統括し、システムをビルドするといったやり方だ。 しかし、これも金曜日に大きな統合作業が必要になることで色々と問題が発生する。詳細はここでは割愛するので、興味ある方は書籍を読んで見てくれ。

  • 非循環依存関係の原則 (ADP)

開発環境をリリース可能なパッケージ単位に分割するのだ。非常にシンプルかつ理にかなったプロセスである。 しかしながら、これを実現するには、パッケージ間にサイクル(循環)を生じないように、パッケージの依存構造を管理しなければならない。

下図のパッケージの依存関係構造は、非循環性の有効グラフである。

MyDialogsの作業を担当しているチームが新しいパッケージをリリースすると、影響を受けるのが誰か見つけるのは容易い。依存関係の矢印を逆に辿ればいいだけだ。 今回でいえば、MyTaskとMyApplicationが影響を受けることがわかる。

そのパッケージのテストを走らせければ、作業中にMyDialogsのバージョンを現在利用しているWindowsパッケージだけとコンパイルしてリンクするだけだ。 システム中の他のパッケージは一切関与しない。

では、パッケージ依存循環関係グラフにおける循環が与える影響についても見てみよう。

最初の図にMyDialogs -> MyApplicationの線を追加した。 この循環は即座に問題を生み出す。例えば、MyTaskパッケージの作業をしている開発者はTasks, MyDialogs, Database, Windowsに依存していることを知っている。しかしながら、「循環(サイクル)」があるので、MyApplication, TaskWindows, MessageWindowにも依存していることになる。すなわち、システム中のパッケージの全てに依存してしまうのだ。 つまり、開発者はまたも最初の問題のように時間を浪費してしまうだろう。

しかし、これは問題の一端にすぎない。 MyDialogsのパッケージをテストしたいときに、Databaseを含むシステムの全てのパッケージをリンクしなければならない。 このことはMyDialogsをテストするためにシステム全てをビルドしなければならないことを意味する。

また、依存グラフに循環があると、パッケージをビルドする順番が非常に難しくなる。実際、正しい順番というものがないからだ。

循環を断つ方法

パッケージの循環を断ち切って依存関係グラフを非循環性の有向グラフに作り変えることは必ずできる。 その中心的な役割を担うメカニズムは2つある。

  • 依存関係逆転の法則(DIP)を適用する

元々は以下のようになっていた。

MyDialogsが利用するインターフェースを抽象基本クラスとして用意する。その抽象クラスをMyDialogsに持たせ、その派生クラスをMyApplicationの中に置く。こうすることによって、MyDialogsとMyApplicationの依存関係が逆転するので、循環が断ち切れる。

詳しくはSOLID原則の記事を書くつもりなので、しばらくお待ちを(他の記事を参考にしたほうが良いでしょう...)

  • MyDialogsとMyApplicationが両方とも依存するようなパッケージを新たに追加し、両方が依存するクラスをこの新しいパッケージに移行する

以下のように aNewPackage を作ることで循環を断ち切れる。

2. 安定依存の原則 (SDP : Stable Dependencies Principle)

安定する方向に依存せよ

この原則を使えば、特定の種類の変更に敏感なパッケージを作ることができる。これらのパッケージは不安定さを前提に設計されており、したがって変更を意識して作られる。

変更することを意識して作られたパッケージが、変更が難しいパッケージに依存するような立場になってはならない。 そうなってしまうと、せっかく変更することを意識して作られたはずのパッケージの変更が難しくなるからだ。

SDPに従えば、変更しやすく設計したモジュールがそれよりも変更が難しいモジュールに依存されないことを保証することができる。

安定性

ここで安定性とは何か考える。

下図のパッケージAは非常に不安定だ。 Aに依存しているパッケージは存在しない。このことを「Aは責任を負わない」という。 また、Aは3つのパッケージに依存している。したがって、外的な要因によってAが変更を強いられる可能性がある。 このことを「Aに依存している」という。

不安定なパッケージA

逆に、下図のHは安定したパッケージだ。このパッケージには3つのパッケージが依存されている。 それゆえに、Hを変更するには真っ当な理由が3つ必要になる。このことを「Hはこれらの3つのパッケージに対して責任を負う」という。 また、このHは全く何にも依存していない。したがって、外的要因によってHが変更を強いられるようなことはない。 このことを「Hは独立している」という。

安定したパッケージH

安定性の尺度

パッケージの安定性を測定する方法の一つは、そのパッケージの出入りする依存関係の数を数えることだ。

C++ではこれらの依存関係は#include文で表現される。Javaではimport文だろう。

不安定度 I は以下のように表せる

I = Ce / (Ca + Ce)

I : 不安定度 Ca : このパッケージの外にあり、このパッケージの中にあるクラスに依存するクラスの数 Ce : このパッケージの中にあり、このパッケージの外にあるクラスに依存するクラスの数

I = 0 が最も安定したパッケージであり、I = 1 が最も不安定なパッケージとなる。

では、実際に下図を用いてパッケージPcの安定性を測定してみよう。

Pcの外にあり、Pcの内部にあるクラスに依存するクラスの数は 3 (q, r, s)である。したがって、Ca = 3 である。 Pcの中にあり、Pcの外にあるクラスに依存するクラスの数は 1 (v)である。したがって、Ce = 1 であり、 I = 1 / 4 となる。

安定依存の原則(SDP) は 「パッケージの不安定度 I は、それが依存するパッケージの不安定度 I の値よりも大きくあるべきだ」と主張している。

違反するものは基本的には、依存関係逆転の法則を使うことで解消できる。 詳細は気が向いたら書こうと思う。

3. 安定度・抽象度等価の原則 (SAP : Stable Abstractions Principle)

パッケージの抽象度と安定度は同程度でなければならない。

この原則が主張していることは、安定度の高いパッケージはその拡張性を失わないためにも抽象的でなればならない。一方、不安定なパッケージは具体的でなければならない。不安定であれば具体的なコードを簡単に変更することができるからだ。

つまり、パッケージを安定にさせる場合は、パッケージは抽象度クラスで構成されるべきである

安定度・抽象度等価の原則(SAP) と 安定依存の原則(SDP) の2つをまとめると、それはパッケージ版の依存関係逆転の原則(DIP)ということになる。

安定依存の原則(SDP) は依存関係が安定する方向に向かうべきであることを主張し、 安定度・抽象度等価の原則(SAP) は安定するということは抽象化されているということを意味するからだ。つまり、依存関係は抽象度の高い方向に向かうことになる。

まとめ

  • パッケージ内部の凝集度に関する3つの原則

    1. 再利用・リリース等価の原則 (REP)
    2. 全利用の原則 (CRP)
    3. 閉鎖性共通の原則 (CCP)
  • 安定性 : パッケージ同士の結合度に関する原則

    1. 非循環依存関係の原則 (ADP)
    2. 安定依存の原則 (SDP)
    3. 安定度・抽象度等価の原則 (SAP)

自分は、アジャイルソフトウェア開発の奥義を読んで学習したが、 著者が同じである Clean Architecture の方が新しく有名なのでそっちを買った方がいいかもしれない。

どちらにせよ、パッケージの原則だけでなく、SOLID原則など設計に関する多くのことがどちらの書籍にも書かれているので、エンジニアであるならば一度は読んでおくことをオススメする。

「勝ち続ける意思力」を読んだ

本の基本情報

本の基本情報について紹介する。

  • 著者名:梅原大吾
  • 書籍名:勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」
  • 出版社:小学館
  • 発売日:2012/4/7
  • 頁 数:254ページ

本の目次

以下は本書の目次です。

  • プロローグ
  • 第一章 そして、世界一になった
  • 第二章 99.9%の人は勝ち続けられない
  • 第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護
  • 第四章 目的と目標は違う
  • 第五章 ゲームに感謝
  • エピローグ

概要

気になったところだけ抜き出していく。

第一章 そして、世界一になった

特になし。

第二章 99.9%の人は勝ち続けられない

 

ほとんどの人は、実力がつけばつくほどに自分なりのスタイルというものを確立してしまう。
(中略)
さらに危険なのが、自己分析して自分のスタイルを決めるのではなく、他人の評価を 鵜呑みにしてしまうことだ。
自分の持ち味はこれなのだと勘違いして、それを生かして勝とうとする。
当然、結果は出ないし長続きもしない。その点、僕の勝ち方にはスタイルがない。
スタイルに陥らないようにしていると言ってもいい。
(中略)
そもそも勝負の本質は、その人の好みやスタイルとは関係のないところにある。
勝つために最善の行動を探ること。
それこそが重要なのであって、趣味嗜好は瑣末で個人的な願望に過ぎない。

考え方を縛らずに変え続けることが大切?どんな状況でも勝てる方法を探るべき。

色んなものさしを手に入れる。

結果が出なかったとき、どう受け止めるかでその後の歩みは変わってくる。  
あのときはたまたま負けただけだったんだと運のせいにするか、このゲームが悪いと責任転嫁するか、
相手が強かっただけだと諦めるか、自分も年を取ったと頭を抱えるか。
だが、そのように一時の感情に流されるのではなく、事実を受け止めて分析することが大事なのである。

自分の行動を振り返る。その行動をした目的を考える。

結局、周りの人間は結果のみで評価する。
だから自分にしか分からない努力を続けている最中は、たいてい誰にも認められない。
物事の表面しか見ることができず、深く考察しない人間は、努力の過程を見ることなく結果だけを見てバカだ無謀だと吐き捨てる。
「アイツ、まだあんな古臭いやり方をしているよ」
確かに非効率的な戦法なのは否めない……気持ちが負けそうになる。
しかし、そこで気持ちが負けて、便利で簡単な戦法を選んでしまうと、確実に成長が止まってしまう。
それは間違いない。

過程で得られるものに着目する。ソフトウェアで言えば便利なライブラリやフレームワークを使えば出来るだろうけど、技術は身につかない。 非効率だが一から自分で作ることも大切。

便利なものに頼り切ると応用が効かない。システムに頼りきっているに過ぎず、自分自身は何も成長はしていない。

その便利なものが無くなってしまったらどうすることも出来なくなる。

「梅原大吾の最大の武器は何か?」そう聞かれたら、
「どれだけ殴られても、諦めずに起き上がって戦うところ」自信を持ってそう答える。  
だから、練習においてはすべての可能性を試していくような取り組みしかできない。
必勝法はないと確信しているからこそ、次から次へと手を替え品を替える。
この方法はダメだと思うけど、実際に試さないと本当にダメかどうかは分からない。
ひとつのことを試してみる。ダメだと分かる。次のことを試してみる。これは使えると分かる。
そうやって初めて、このやり方をとりあえず柱にしてみようと思える。
とにかく、できることを片っ端から試していくのだ。

著者の凄さが伝わる。隅から隅まで徹底的に潰して、どれが良くてどれがダメなのかを経験していく。 全てを試してみるやり方。そういう方法も一つの手。

僕にとっての正しい努力。それはズバリ、変化することだ。  
昨日と同じ自分でいない──。  
そんな意識が自分を成長させてくれる。  
ゲームの世界においては、変化なくして成長はない。 
「本当にこのままでいいのか?」 
「自分の殻を破って新しいことに挑戦してみよう」 
「必死に編み出したやり方も通用しなくなった。別のやり方を考えてみよう」  
常に自分を変えようとする、そうした意識が求められる。  
しかし、多くの人は、変わることと前へ進むことは別だと思っているだろう。
確かに、自分を変えることは不安だし、変化した先に勝利があるとは限らない。
けれども、変わり続けていれば必ず前へ進める。 
変化したことで失敗したり、後ろに下がったりしたときは、もう一度変化すればいい。
失敗に気づいて変化すれば、以前の自分よりも必ず高い位置に行ける。  
一歩後退しても、その後退には意味があり、それがきっかけで二歩進む方法が見えてくることもある。

仕事は楽しいかね?でも同じ話がある

変わり続けることは難しい。

本当に小さくて些細なことだけど、いつもと違う帰宅路を歩いてみるとか、定番から外れたメニューを食べるとか、普段使わない駅に降りてみるとか。 小さくてもいいから変えてみる。

仕事相手とのちょっとした思惑の行き違いを感じたり、試験勉強中自分の解法が違うのに、
問題の解だけがなぜか正解していて首を 捻るなんてことがあっても、
「まぁ、いいか」のひと言で済ませ、その疑問を蔑にしてしまうのはよくあることだ。
 (中略)
経験上、その気掛かりをそのまま放置してはいけない。 
「あれ? これはちょっとおかしいな……だけど、たいした問題じゃないだろう」  
そうやって無視していると、後になって必ず痛い目に遭う。
そのときになって初めて、「そういえばこれ気になってたんだよなぁ……」と、後悔するハメになる。  
だから、気になったことは必ずメモするようにしている。
そのときに時間があるわけではないので、後で絶対に解決しないといけないと心に決め、
直感的に「問題になるかも」と感じたことはすべて分かりやすく箇条書きにしている。
深く考えることに何の意味があるのかと思う人がいるかもしれない。
しかし、どうでもよく思えることにも、必ず気づきがあり、自分なりの答えに行き当たる。
その答えが正解かどうかは、あまり重要ではない。
それよりも自分自身で考え抜き、何かしらの答えや新たな考えを見つけることの方が大事なのだ。 
「僕には翼がないけど、翼に負けないこんな部分があるから大丈夫だ」  
そんな答えが見つかれば、自信を持って歩みを進めることができる。
人に教えられた答えではなく、自分の頭を使って見つけた自分だけの答えである。
例えば人間関係にしても、自分はこれくらいの強さだから、この人に話し掛けるのはやめておこうとか。
勝負の世界はその強さで上下関係が決まるようなところがあるから、
自分なんかが話し掛けても友達になれないと思うのだろう。
あるいは自分の実力はこの程度だから、世界チャンピオンと試合をしても仕方ないと尻込みしたりする。
それでは進化は望めないし、つまらないのではないだろうか。
話したければ話せばいいし、戦いたければ戦えばいい。そうすることで命を取られるようなことはない。
ひどく冷たくされたり、大負けして恥をかいたりする程度のことは、もしかしたらあるかもしれないが、
そうなったからと言って人生に支障は出ないはずだ。

部長とか所長とか役職が上の人に話すのは躊躇してしまうが、話したいなら話せばいい。

計算しながら進む方が近道だと思っている人が多いのかもしれない。
世渡りが上手いとか、要領がいいと言われる人がそうだろう。
しかし、僕の経験から言えば、それは間違っている。
失敗をせずに前進できることなんてほとんど稀だった。
何かを恐れ、回避し、ごまかしながら前進したとしても、上に行こうとすれば、
ほとんどの場合回避したはずの壁に結局ぶち当たらざるを得ない。
ぶち当たるというか、その壁を越えなければ結局上に行けないような仕組みになっているのだと僕は感じている。  
だとしたら、自ら足を踏み出し、どんどん失敗していった方が、よっぽど効果的だし、
より高い場所へと行ける道だと考えている。
僕もこの2、3年で、人の評価や結果は一過程のもので、それよりも自分がやっている努力の方が遥かに尊いと思えるようになった。
自分の取り組みが正しいのか、正しくないのか。
そこで煩悶してしまうのは、まだ自信がなかったからだ。
それでもめげずに、強い意志を持って続けていくと、 
「正しくないかもしれないけど、俺はこれでいい」 
そう思える日がやってきた。
例えば仕事においては、ほとんどの人にとってお金が目的だろう。
ビジネス自体に主眼を置いている人、その道を極めたいと努力している人は全体の割合から言って少ないような気がする。  
お金が目的の人にとっては、効率の悪い努力とか、荒波に 揉まれる経験は必要ないのかもしれない。
お金さえ手に入れば、自分自身の成長などなくても満足なのだから。  
しかし、ビジネスを単なる金儲けの手段ではなく生きる目的としている人、
僕のようにゲームを通して自分自身を成長させたいと願っている人は、
なにはともあれ流行っているものに身を投じるべきだ。
流行りという言葉を使うと勘違いされそうだが、
やはり最激戦地と呼ばれる戦場で戦うべきだ。  
少なくとも僕には、常に熾烈な競争が待ち受けている最前線で戦ってきたという自負がある。
(中略)
常に先頭を走るためには時代に敏感である必要があるし、流行りのもの、みんなの熱い視線を集める舞台で戦う必要がある。 
「ここなら絶対に負けない」という土俵があっても、そこに縛られている限り新境地に到達することはない。
自分の庭を平気な顔で飛び出して、多くの人たちと一緒になって一からスタートを切る。
常に厳しい競争に身を 晒していなければ、勝ち続ける力は摩耗し、劣化してしまうだろう。

流行りの技術など、どういった背景で流行っているのか知ることが大事。

一つに拘っていても仕方がない。(得意があることはいいことだけど)

ゲームを楽しみたいとか、ゲームで勝ちたいとか、その程度の気持ちではなく、もう少し別の次元で物事を考えている。
やはり、ゲームはあくまでもゲームで、本当の目的は自分自身の成長にある。
だから、あえて暗くて険しい道を行く。血のにじむような努力をして無敵の強さを手に入れても、
すぐにそれを手放さなければいけない。そのことが分かっているのに頑張れる。
快感を味わうのはほんの一瞬だが、それでも暗闇が晴れたときの自分の姿を想像するだけで前途洋々だ。
おそらく、手にできる 11、 12、 13 の強さが 10 年、 20 年と持ち越せるものであれば、頑張れる人はいると思う。
しかし、僕は違う。一瞬の快感を味わうため、どんな苦労にも前のめりで立ち向かうことができる。

この章で著者の格闘ゲームに対する考えを知ることができる。格闘ゲームに収まらず人生の生き方を示してくれる。

勝つということに対する熱量を感じ、自分もやろうという気持ちになる。

第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護

格的に打ち込むようになってから3年で麻雀のトップレベルに立てたのは、
やはり強い人の打ち方を真似したからだと思う。

仕事のできる人から盗めるものは盗む。真似をするのは悪ではない。

型にはめて戦うということは、独自の努力をする必要がないということだ。
追求を放棄して、これはもはや仕事だから、と割り切ってしまっているようなものだ。
僕の場合はそうではなく、自分の判断に従った戦い方をしたいと思う。
そういった覚悟で臨んでいれば、型にはめて得られる利益より多くの何かを手にできると思っている。
自分の感覚を信じ、感じたままに行動したいと思う。
(中略)
結果ばかりを追求していると、型にはまった考えしか浮かばなくなる。
もっと効率のいい戦法はないか、もっと安全な戦い方はないか。
理屈を 捏ねては理由づけをする。その頃は、勝つために役に立つと思ったことは片っ端から試していた。
そのために本もたくさん読んだ。ジャンルを問わず、考え方の本や戦術の本は相当な量を読破したと思う。
しかし、読めば読むほど、考えれば考えるほどに、戦術や理屈の部分というのは人と同じようなものになってしまう。
次第に参考にならなくなり、もっと大事なことがありそうだ、という結論に至った。
結局、型にはまってしまうのは、失敗を避け、有名になりたいとか、目立ちたいとか、
誰かに認めてもらいたいと願う欲望ではないだろうか。
そして、結局はその欲望が自分自身を委縮させてしまうのだ。

結局、型にはまってしまうのは、失敗を避け、有名になりたいとか、目立ちたいとか、誰かに認めてもらいたいと願う欲望ではないだろうか。

この一文は、かなり刺さった。 もっと良いものを求めるには枠を超えたアイデアが必要だと思う。

最初は型に則るのが良いと思うが、慣れた頃から独自の考えを付加していくべき。(?)

第四章 目的と目標は違う

目の前のことに没頭し、工夫を凝らし、努力を重ねてみればいい。
そうすれば新たな思い、それこそ思いのほかポジティブな気持ちが芽生えてくるような気がする。
例えば、とにかく3年は打ち込んでみる。3年後、 
「分かった! やっぱり好きじゃない。どうしても好きになれない」
そのことに気づけただけでも、素晴らしい発見だと思う。
自分にとって何がいいのか思い悩むだけではなく、まずは行動する、
漫然と変化を待つのではなく、行動によって環境そのものを変えてしまうのだ。
とことん行動し、その分野で努力を怠らなければ、自分が本当は何がしたいのかということが少しずつ、
でも確実に見えてくる。
「このときまでに何かをしなきゃいけない」なんて目標は立てない。
ただ、目の前のことに集中して 粛々と歩んでいく。  
格闘ゲームの神と称賛されることも、世界一に輝いたことも、
ギネスブックに名前が載ったことも、僕にとっては特別なことではない。
ジャンルによって価値は違うだろうが、どれだけ素晴らしい賞を受賞しても、
次の年、その次の年も賞を獲得できるようでなければ、受賞したこと自体が成功と言えるのか疑問に思えてしまう。
それよりも自分のペースで生きて、毎日少しずつ成長して、
その結果、自然に賞賛を受ける方が、無理がないし継続できるだろうと僕は思う。

今を懸命にやる。別の本にも同じようなことが書いてあった。

自分の限界を超えた期間限定の頑張りというのは、結局は背伸びに過ぎない。
食事も満足に摂らず、睡眠時間も削るような取り組み方が長続きするはずがない。
半年後、僕はようやく復活し、大きな勘違いにも気づくことができた。

短期より長期的に見て続けられるようにする。

ガムシャラにやることと同時に昔は、ある程度の時間がないと物事を追求できないと思っていた。
できるだけ多くの時間を費やさなければ自分を高められない、と。
しかし、いまはそうは思わない。結局、大切なのは質であって量ではないということだ。
その身を削って1日 15 時間を割いたところで、成長につながる何かしらの発見があるとは限らない。
そもそも、物事の追求にそれだけの時間を割いていると睡眠時間が削られ、
満足な食事もできず、体調管理が十分ではなくなってしまう。

健康でなければ良い結果を残すことができないのは、ゲームに限らず
スポーツ、仕事、芸術、趣味など、どの世界にも共通することだろう。  
常に高いレベルをキープし、コンスタントに結果を出し続けるという観点からすると、
物事の追求に自分の限界を超えた時間を割くことは効率が良くないのではないかと思う。
例えば、短い時間でも、成長や進歩と思える小さな発見があればそれでいいだろう。

小さな一歩を重ねることが大事。

持続可能な努力のためには、目標はあくまでも目標で、目的と混同してはいけないということを知る必要がある。
ゲームでは大会への出場がひとつの目標になるだろうが、大会で勝つこと自体を目的にするとろくなことはない。
少なくとも僕の場合、結果だけを求めて出場した大会で良い成績を残せたことはない。
(中略)
誰にも負けないくらいやり込んできたという自負があれば、どんな相手にも気持ちで負けることはない。
しかし、賞金目当てで頑張ってきた人間の気持ちは驚くほど弱い。
そのことに気づいたので、目的を見誤ってはいけないと実感した。

大会というのは、日々の練習を楽しんでいる人間、自分の成長を追求している人間が、遊びというか、
お披露目の感覚で出るものではないだろうか。
大会における勝利は目標のひとつとしてはいいかもしれないが、目的であってはいけない。
そのことに気づいてからようやく、勝つことより成長し続けることを目的と考えるようになった。
ゲームを通して自分が成長し、ひいては人生を充実させる。
いまは、そのために頑張っているんだ、と。

勝つことを目的にしてはいけない。成長し続けることを目的とする。

喜びは日々の練習にこそ感じたい。 
結局、大会の結果を重視する人は、人の評価でモチベーションが変わる人と言える。
その人の強さは、別に大会があろうがなかろうが変わらない。
それなのに大会に勝って喜び、負けて悔しがるのは、人の評価、拍手喝采が原動力になっているということではないか。
そういう人は、大きな大会がなくなったらどうするのか。勝っても評価されなかったらどうするのか。
何より結果は運に左右されやすいので、負け続けたらどうするのか。
大会の結果なんかに価値を置いていたら、成長どころか精神の安定も難しい。

これはその通りだ。しかし、自分に出来ていない。 日々を楽しむ。これに勝るものはないと思う。

日々成長・変化を感じよう。

受験戦争を乗り越えてきた人から、よく「1日 15 時間以上勉強していました」という話を聞く。
なるほどすごいとは思うが、その努力を何年続けられるのだろう。
おそらく1年くらいが限界ではないだろうか。
1日 15 時間以上勉強して身につけた知識は、一時的には結果を残すかもしれない。
だが、その知識が持続するとは限らない。
限界を超えた努力で身につけた力は、本当に一瞬で失われてしまうことがある。
それでも合格という結果を得られれば救われるだろうが、1日 15 時間以上勉強して不合格に終わったら、その精神的ショックは計り知れない。
自分にとっての適量を考えるなら、 
「その努力は 10 年続けられるものなのか?」
自問自答してみるのがいい。
甘過ぎることもなく、厳し過ぎるわけでもない。 10 年続けられる努力であれば、ちょうどいいと言える。
 10 年続けられる努力かどうか考えれば、おのずと自分にとっての努力の適量、
正しい努力の度合いが見えてくるのではないだろうか

この話はなるほどなと思った。ただ若いうちにつけた知識はレバレッジが効くので良いと思う。

しかし、続かなかったり、嫌いになってしまったら元も子もない。

10年続けることは並大抵のことではないと思う。10年続けてきたものなんか今まで無いので想像がつき辛い。 一つの基準として持っていこうと思う。

大きな変化、大きな成長を求めると、それを得られなかったとき、モチベーションが低下してしまう。
だから1日1日、少しの変化で満足できる自分でありたい。継続することが大切だと感じる自分でありたい。  
飛躍的な成長や裏技、必殺技を得ようと思わない。
一気にレベルアップしなくても、一歩一歩階段を登ればそれでいいのだ。
毎日、 60 の幸せを手にするため、作業しているとき以外は逆に自信を持って休むことが大切だ。
明日の英気を養うことも、継続的な努力の内なのだから。
時間を費やすことだけで努力している気になる人が多いが、限界を超えて打ち込んでも成果は上がらない。
1日6時間なら6時間、3時間なら3時間と時間を決めて、集中する方がいい。
そして後は自信を持って休む。  
大切なのは時間を費やすことではなく、短くてもいいからそれを継続し、そのなかに変化や成長を見出すことだ。
2円安いスーパーを見つけるような小さな変化でいいから、その変化に気づき、
そこに成長を感じながら日々を過ごせたら何よりだと思う。

繰り返し同じことを言っているが、日々の成長が勝ち続けるために必要。 大きな成長ではなく、小さい一歩一歩を継続していくこと。

本当に疲労して休まざるを得ないときはあるだろうが、休憩や余暇を目標に仕事をするのは、
究極の幸せとは違うと思っているからだ。
僕も大会で結果ばかりを求めていたときは、何日か休みたいと思った。
頑張って結果を残したら、終わって良かったと 安堵 して気持ちを緩めていた。
しばらく休んで、また立ち上がって努力する感じだった。  
しかし、そういうサイクルで過ごしていたら、頑張ることが次第に苦痛になってきたのだ。
しかも頑張って結果を残して、待望の休みが来たとき楽しいかと言うと、そうではなかった。
休日のために頑張ってきたはずなのに、いざその日が来たらあまり楽しくなかったのだ。
だから、適度な頑張りを続けて毎日を心地よく過ごすことが大事なのである。
人生に区切りを求めるのではなく、継続する。

これは自分も思っていて、人生のほとんどを仕事をするわけだから仕事を好きになるのが幸せだと思う。

何かを目標に一定の時期だけ頑張っていると、目標が全てになってしまう。 そうではなく、日々努力を重ねて、日々成長を感じる。そうすれば毎日が楽しい。

いつか来る大きな幸せよりも、毎日が楽しい方が遥かに幸せ。

第五章 ゲームに感謝

チャンピオンが常に勝てるとは限らない。チャンピオンになることより、勝ち続けること、
成長し続けることの方が遥かに難しいし、価値がある。
そのことを思い知ると慢心が消え、次の日からまたチャレンジャーの気持ちで戦うことができる。
僕にとって生きることとは、チャレンジし続けること、成長し続けることだ。
成長を諦めて惰性で過ごす姿は、生きているとはいえ生き生きしているとは言えない。
常にチャレンジして、たくさん失敗すればいいと思う。
ときにはどん底を味わうような苦い経験もするだろうが、とりわけ若いうちはいくらでも取り返せる。
若い頃は気力も充実しているし体力もあるから、きっと立ち直れる。
もちろん、年を取ったら失敗できないなんてことはない。  
若いうちに失敗した方がいいのではなく、若いうちから失敗した方がいいだけだ。  
僕はどんどん失敗したいと思っている。5年後、 10 年後もチャレンジと失敗を繰り返していたいと思う。  
もちろん、同じ失敗を繰り返すつもりはない。「よし、失敗した」と喜ぶこともない。
ただし、失敗することを恐れない人間でありたい。そのためにも、若いうちから失敗した方がいい。

楽する人生より充実した人生を歩みたい。 失敗を恐れず挑戦して経験していく。何度も繰り返す。

失敗を恐れない人間でありたい

一番良くないのは、どの階段を登ればいいか迷っている状態が延々と続くことだ。
階段の下で正解の道を吟味し思い悩んでいるだけの人間よりも、
間違った階段でもいいからとりあえず登っている人間の方がはるかに上達が早いと思う。

自分はこれやりがちだ。止まって何をするか考えてしまう。とにかく全部やってみる勢いでやるのが良いのかも?

自らの積極的なチャレンジによる結果の失敗を笑うなら、それは嘲笑ではなく快活な豪笑であるべきだろう。
失敗を見てバカにするような人間も、1年後、2年後、積極的なチャレンジを続ける姿を見れば笑えなくなる。
そして「失敗したけど、あのチャレンジはすごかったよね」と賞賛の言葉を投げ掛けてくるはずだ。

笑われても馬鹿にされても自分の芯はブレずにやる。挑戦をやめない。

最後に

何事も世界一になることは並大抵のものではない。「日々変化すること」これが大切だ。

著者の梅原さんの思考に触れることで、自分の熱量も刺激される良著。めちゃくちゃ安いので読んで欲しい。

最高におすすめです。

 

 

iPhoneのデータ移行にハマった話

内容

iPhone12miniを購入し、手元のiPhone7からデータ移行をしようと思ったが全く上手くいかなかったです。

クイックスタートでは、Apple IDの登録はできるもののデータ移行画面に行かない。

Macbookを使ってバックアップから復元しようとしても

「バックアップが壊れているか、復元先のiPhoneと互換性がないために、iPhoneを復元できませんでした」

とエラーが出てきました。

原因

自分はAppleのパブリックベータテストに加入していました。

なので、iPhone7が現在(2021/5/21)での一般公開されているiOSバージョンより最新だったため上手くいっていなかった。

  • iPhone7 : iOS 14.6 (ベータ版)
  • iPhone12mini : iOS 14.5

対策

iPhone7をiOS 14.5に戻すにはiOS 14.5のバックアップをとってある必要があったが、自分はなかった。

そこで、iPhone12miniをiOS14.6(ベータ版)にあげることにした。

まず、iPhone12miniをデータ移行しないで先に進み、WiFi繋げてネットにアクセスできる状態でAppleのバブリックベータテストのページにいく。

Apple Beta Software Program

ログインして、ベータ版のプロファイルを入手しインストールする。 そして、iOS 14.6にアップデートする。

こうすれば、あとは色んな記事に書いてあるように以下のようにする。

  1. 設定アプリを押してください。
  2. 「一般」を押してください。
  3. 「リセット」を押してください。
  4. 「すべてのコンテンツと設定を消去」を押してください。
  5. 「パスコード」を入力してください。
  6. iPhoneを消去」を押してください。
  7. iPhoneを消去」を押してください。

あとは、クイックスタートでデータ移行ができるようになった。

最後に

原因を検索しても割と見つからなかったので、自分で記事にしてみました。

パブリックベータに加入している人は知識あってハマらないのかな?

では、新しいiPhone生活を!

「嫌われる勇気」を読んだ

本の基本情報

本の基本情報について紹介する。

本の目次

以下は本書の目次です。

  • 第一夜:トラウマを否定せよ
  • 第二夜:すべての悩みは人間関係
  • 第三夜:他者の課題を切り捨てる
  • 第四夜:世界の中心はどこにあるか
  • 第五夜:「いま、ここ」を真剣に生きる

概要

第一夜:トラウマを否定せよ

アドラー心理学ではトラウマを明確に否定します。
(中略)
いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。
われわれは自分の経験によるショックーいわゆるトラウマーに苦しむのではなく、
経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。
自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである

自分はトラウマがなったことないので、この考え方は良いなと思いましたが、実際にレビューのコメントを見てみるとトラウマを経験した人は反論しているコメントも多い。

しかし、トラウマを経験していない自分にとっては、これから起こるかもしれない経験に対しては自分で選択して意味を決定していくのが良いのだろう。

大切なのはなにが与えられているかでなく、与えられたものをどう使うかである。
いまのあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだ
新しいライフスタイル※を選んでしまったら、新しい自分になにが起きるかわからないし、
目の前の出来事にどう対処すればいいのかもわかりません。
未来が見通しづらくなるし、不安だらけの生を送ることになる。
もっと苦しく、もっと不幸な生が待っているかもしれない。
つまり人は、いろいろと不安はあったとしても、「このままのわたし」で
いることの方が楽であり、安心なのです。

※ライフスタイル = 人生における、思考や行動の傾向
アドラーは、「人はライフスタイルを自ら選んだ」と言っている。
つまり、再び選び直すこともできる。
しかし、人は「変わらない」という決心をしている。

ライフスタイルを変える”勇気”が必要。つまり、あなたが不幸なのは、「幸せになるための勇気」が足りてない。

この章では目的論について話されている。目的論がどういうものかは割愛。

目的論:人間の行動には全て目的がある | アナザーヒストリー

目的論と合っているか分からないが、目的を持って行動することで日々の充実度が上がるとは思う。

第二夜:すべての悩みは人間関係

われわれを苦しめる劣等感は「客観的な事実」ではなく、「主観的な解釈」なのだ
(中略)
主観にはひとつだけいいところがあります。
それは、自分の手で選択可能だということです。

劣等感をこじらせて、「…だからダメなんだ」と思い込んだり、 ブランドや権力、不幸まで「自慢」するようになることが問題。

劣等感は他者との比較で生まれる。つまり、全ての悩みは人間関係と言っている。(劣等感以外も全て人間関係に起因する)

「優越性の追求も劣等感も病気ではなく、健康で正常な努力と成長への刺激である」
 劣等感も使い方さえ間違えなければ、努力や成長の促進剤となる
「優越性の追求」とは、自らの足を一歩前に踏み出す意思であって、
他者よりも上を目指そうとする競争の意思ではありません
(中略)
健全な劣等感とは、他者との比較の中で生まれるのではなく、
「理想の自分」との比較から生まれるものです

【人生のタスク】

行動面の目標

  • 自立すること
  • 社会と調和して暮らす

行動を支える心理面の目標

  • 私には能力があるという意識
  • 人々は私の仲間であるという意識

【人生の3つの課題】

「仕事」「交友」「愛」は人生において直面せざるを得ない人間関係。 先延ばしせず、真剣に取り組むことで人生の目標を達成できる。

何が与えられているかではなく、与えられたものをどう使うか

目的論の立場になって、自らのライフスタイルを自分で選ぶ。

第三夜:他者の課題を切り捨てる

 もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、
他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」のです。
およそあらゆる対人関係のトラブルは、他者の課題に土足で踏み込むこと
―あるいは自分の課題に土足で踏み込まれること―によって引き起こされます。
自らの生について、あなたができるのは「自分の信じる最善の道を選ぶこと」、それだけです。
一方で、その選択について他者がどのような評価を下すのか。
これは他者の課題であって、あなたにはどうすることもできない話です。
(中略)
相手が自分のことをどう思おうと、好いてくれようと嫌っていようと、
それは相手の課題であって、自分の課題ではない
わたしの提案は、こうです。まずは「これは誰の課題なのか?」考えましょう。そして課題の分離をしましょう。
どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。
そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。
これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、
自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。
対人関係のカードは常に「わたし」が握っている

「自分の信じる最善の道」を選び、進み続けることが自分の課題。 それを他者がどう見るかはどうしようもできない、他者の課題。

それなのに、他者のその課題をどうにかしようとするから不自由を感じる。 承認を求めるということも、他人の人生を生きているのと同じで不自由。

課題の分離の大切さをこの章で学ぶことができた。課題を分離することで関係ないことは無視しても良いと自分は思った。

第四夜:世界の中心はどこにあるか

「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。
(中略)
所属感とは、生まれながらに与えられるものではなく、自らの手で獲得していくものなのです。
共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。
他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。
そこではじめて、われわれは自らの価値観を実感することができるのです。
「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。
わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。
他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」

「この人は私に何を与えてくれるか?」という自己中心的な考えでは無く、 「私はこの人に何を与えられるか?」という他者貢献を考える必要がある。

これはつまり、「 Giver」のことであり、この考え方は正しいと感じた。

Giveすることを考えることで所属感が生まれる。

「ほめること」の背後にある上下関係、縦の関係を象徴しています。
人が他者をほめる時、その目的は「自分より能力の劣る相手を操作すること」なのです。
そこには、感謝も尊敬も存在しません。
ほめてもらうことに喜びを感じているとすれば、それは縦の関係に従属し、
「自分には能力がない」と認めているのと同じなのです。
ほめることとは「能力のある人が、能力のない人に下す評価」なのですから。
(中略)
ほめてもらうことが目的になってしまうと、結局は他者の価値観に合わせた生き方を選ぶことになります。
「ありがとう」「助かったよ」とお礼を伝える。
これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチです。

ここは納得しづらい部分だが、褒めるのではなく「ありがとう」などの感謝の言葉を伝えることが良いというのは納得した。

言われてみると、褒められることを考える -他者の評価に基づいて行動する- ことを目的にしがちだった気がする。 自分も意識してないと褒めてしまう気がする。

共同体感覚はかなり納得できた。Giveすると自分に返ってくるという話はよく聞くが、Giveして自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えることが割と大事なのだと思う。

横の関係に関しても、上司などの年長者を敬うことは大切。 しかし、意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切。 この話は自分に上司でも対等なのだという新たな気づきを与えてもらった。

第五夜:「いま、ここ」を真剣に生きる

他者がわたしになにをしてくれるかではなく、わたしが他者になにをできるかを考え、実践していきたいのです。
その貢献感さえ持っていれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう。
ありのままの自分を受け入れるーつまり「自己受容」するーからこそ、
裏切りを怖れることなく「他者信頼」することができる。
そして他者に無条件の信頼を寄せて、人々は自分の仲間だと思えているからこそ、
「他者貢献」することができる。
さらには他者に貢献するからこそ、「わたしは誰かの役に立っている」と実感し、
ありのままの自分を受け入れることができる。「自己受容」することができる。

「共同体感覚」を持つことで承認欲求は消える。

「共同体感覚」に必要な3つの観点

  • 自己受容

60点の自分をそのまま60点として受け入れた上で「100点に近づくためにどうしたら良いか」を考えるのが自己受容。

  • 他者信頼

他者を信じるにあたって、一切の条件をつけない。信頼することを恐れていたら結局は誰とも深い関係を築けない。

  • 他者貢献

「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそなされるもの。

貢献感を得るための手段が「他者から承認されること」になってしまうと、
結局は他者の望みどおりの人生を歩まざるをえません。
承認欲求を通じて得られた貢献感には、自由がない。
われわれは自由を選びながら、なおかつ幸福をめざす存在なのです。
アドラー心理学が大切にしているのが、「普通であることの勇気」という言葉です。
(中略)
なぜ「特別」になる必要があるのか? それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。
(中略)
普通であること、平凡であることは、ほんとうによくないことなのか。
なにか劣ったことなのか。じつは誰もが普通なのではないか。
人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。
あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。
過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、
未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。
「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。
われわれは困難に見舞われたときにこそ前を見て、「これからなにができるのか?」を考えるべきなのです。
(中略)
そこでアドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。
「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。
あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、
「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、
なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。
「ひとりの力は大きい」、いや「わたしの力は計り知れないほどに大きい」
(中略)
「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。
世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。

ありのままの自分が、信頼する仲間の役に立っていると「感じる」こと。 幸福とはその「貢献感」!見返りなど不要。

色んな自己啓発本では、目標を決めることの重要性を説いているが、アドラーでは人生にはゴールなんかない。「物語」ではなく「旅」と捉えて道中を楽しみ、途上も意義あるものとして「いま、ここ」を真剣に丁寧に生きることが幸せと言っている。

ただ、目標を決めても人生にはゴールはないことは正しい。アドラーも目標が悪いと言っているわけではない。

この記事が参考になった。 「目標」は設定するな?達成感の罠から抜ける、アドラー実践法 - セルフリライアンス〜もっと自分を好きになる方法

最後に

目的論は自分にとってパラダイムシフトを起こしてくれた。自分にはなかった考え方が多く、実践していきたい。

かなり面白い本でした。受け入れられるかは分かれるところですが、自分はオススメします!

願望実現6ヶ条

願望実現6ヶ条

1.

あなたが実現したいと思う願望を「はっきり」させること。

単にお金がたくさん欲しいなどというような願望設定は全く意味ない。

2.

実現したいと望むために、あなたはその代わりに何を差し出しますのかを決める。

この世界は代償を必要としない報酬など存在しない。

3.

あなたが実現したいと思っている願望を取得する「最終期限」を決める。

4.

願望実現のための詳細な計画を立てること。

そして、まだその準備ができていなくても迷わずすぐに行動に移すこと。

5.

  • 実現したい具体的な願望
  • そのための代償
  • 最終期限
  • そして、詳細な計画

以上の4点を紙に詳しく書く。

6.  

紙に書いたこの宣言を1日に2回起床直後と就寝直前になるべく大きな声で読むこと。

この時、あなたはもうすぐにその願望を実現したものと考え、そう自分に信じ込ませることが大切。


自分の願望

  • 実現したい具体的な願望

ソフトウェア設計ができ、それを実装できるエンジニアになり、会社で昇進する。 (DDD、クリーンアーキテクチャクラウド設計)

  • そのための代償

AI、組み込み、オンプレ、使わない言語(Haskellを除く)は勉強しない

  • 最終期限

30歳までに昇格 (残り5年)、転職もあり。

現在の会社なら最速で出世して30歳で700万とか。

  • そして、詳細な計画

今んところなし...2021年7月以降に更新する。

最後に

今は全然詳細な計画がないし、具体的な願望もめちゃくちゃ浅い。

適宜更新していく。会社で昇進することが目的なのは少し違いそう。

それなら、金を稼ぐことを目的にしたほうが良さそう。 そして、金を稼ぐなら昇進じゃなくても出来る!?