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「勝ち続ける意思力」を読んだ

本の基本情報

本の基本情報について紹介する。

  • 著者名:梅原大吾
  • 書籍名:勝ち続ける意志力 世界一プロ・ゲーマーの「仕事術」
  • 出版社:小学館
  • 発売日:2012/4/7
  • 頁 数:254ページ

本の目次

以下は本書の目次です。

  • プロローグ
  • 第一章 そして、世界一になった
  • 第二章 99.9%の人は勝ち続けられない
  • 第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護
  • 第四章 目的と目標は違う
  • 第五章 ゲームに感謝
  • エピローグ

概要

気になったところだけ抜き出していく。

第一章 そして、世界一になった

特になし。

第二章 99.9%の人は勝ち続けられない

 

ほとんどの人は、実力がつけばつくほどに自分なりのスタイルというものを確立してしまう。
(中略)
さらに危険なのが、自己分析して自分のスタイルを決めるのではなく、他人の評価を 鵜呑みにしてしまうことだ。
自分の持ち味はこれなのだと勘違いして、それを生かして勝とうとする。
当然、結果は出ないし長続きもしない。その点、僕の勝ち方にはスタイルがない。
スタイルに陥らないようにしていると言ってもいい。
(中略)
そもそも勝負の本質は、その人の好みやスタイルとは関係のないところにある。
勝つために最善の行動を探ること。
それこそが重要なのであって、趣味嗜好は瑣末で個人的な願望に過ぎない。

考え方を縛らずに変え続けることが大切?どんな状況でも勝てる方法を探るべき。

色んなものさしを手に入れる。

結果が出なかったとき、どう受け止めるかでその後の歩みは変わってくる。  
あのときはたまたま負けただけだったんだと運のせいにするか、このゲームが悪いと責任転嫁するか、
相手が強かっただけだと諦めるか、自分も年を取ったと頭を抱えるか。
だが、そのように一時の感情に流されるのではなく、事実を受け止めて分析することが大事なのである。

自分の行動を振り返る。その行動をした目的を考える。

結局、周りの人間は結果のみで評価する。
だから自分にしか分からない努力を続けている最中は、たいてい誰にも認められない。
物事の表面しか見ることができず、深く考察しない人間は、努力の過程を見ることなく結果だけを見てバカだ無謀だと吐き捨てる。
「アイツ、まだあんな古臭いやり方をしているよ」
確かに非効率的な戦法なのは否めない……気持ちが負けそうになる。
しかし、そこで気持ちが負けて、便利で簡単な戦法を選んでしまうと、確実に成長が止まってしまう。
それは間違いない。

過程で得られるものに着目する。ソフトウェアで言えば便利なライブラリやフレームワークを使えば出来るだろうけど、技術は身につかない。 非効率だが一から自分で作ることも大切。

便利なものに頼り切ると応用が効かない。システムに頼りきっているに過ぎず、自分自身は何も成長はしていない。

その便利なものが無くなってしまったらどうすることも出来なくなる。

「梅原大吾の最大の武器は何か?」そう聞かれたら、
「どれだけ殴られても、諦めずに起き上がって戦うところ」自信を持ってそう答える。  
だから、練習においてはすべての可能性を試していくような取り組みしかできない。
必勝法はないと確信しているからこそ、次から次へと手を替え品を替える。
この方法はダメだと思うけど、実際に試さないと本当にダメかどうかは分からない。
ひとつのことを試してみる。ダメだと分かる。次のことを試してみる。これは使えると分かる。
そうやって初めて、このやり方をとりあえず柱にしてみようと思える。
とにかく、できることを片っ端から試していくのだ。

著者の凄さが伝わる。隅から隅まで徹底的に潰して、どれが良くてどれがダメなのかを経験していく。 全てを試してみるやり方。そういう方法も一つの手。

僕にとっての正しい努力。それはズバリ、変化することだ。  
昨日と同じ自分でいない──。  
そんな意識が自分を成長させてくれる。  
ゲームの世界においては、変化なくして成長はない。 
「本当にこのままでいいのか?」 
「自分の殻を破って新しいことに挑戦してみよう」 
「必死に編み出したやり方も通用しなくなった。別のやり方を考えてみよう」  
常に自分を変えようとする、そうした意識が求められる。  
しかし、多くの人は、変わることと前へ進むことは別だと思っているだろう。
確かに、自分を変えることは不安だし、変化した先に勝利があるとは限らない。
けれども、変わり続けていれば必ず前へ進める。 
変化したことで失敗したり、後ろに下がったりしたときは、もう一度変化すればいい。
失敗に気づいて変化すれば、以前の自分よりも必ず高い位置に行ける。  
一歩後退しても、その後退には意味があり、それがきっかけで二歩進む方法が見えてくることもある。

仕事は楽しいかね?でも同じ話がある

変わり続けることは難しい。

本当に小さくて些細なことだけど、いつもと違う帰宅路を歩いてみるとか、定番から外れたメニューを食べるとか、普段使わない駅に降りてみるとか。 小さくてもいいから変えてみる。

仕事相手とのちょっとした思惑の行き違いを感じたり、試験勉強中自分の解法が違うのに、
問題の解だけがなぜか正解していて首を 捻るなんてことがあっても、
「まぁ、いいか」のひと言で済ませ、その疑問を蔑にしてしまうのはよくあることだ。
 (中略)
経験上、その気掛かりをそのまま放置してはいけない。 
「あれ? これはちょっとおかしいな……だけど、たいした問題じゃないだろう」  
そうやって無視していると、後になって必ず痛い目に遭う。
そのときになって初めて、「そういえばこれ気になってたんだよなぁ……」と、後悔するハメになる。  
だから、気になったことは必ずメモするようにしている。
そのときに時間があるわけではないので、後で絶対に解決しないといけないと心に決め、
直感的に「問題になるかも」と感じたことはすべて分かりやすく箇条書きにしている。
深く考えることに何の意味があるのかと思う人がいるかもしれない。
しかし、どうでもよく思えることにも、必ず気づきがあり、自分なりの答えに行き当たる。
その答えが正解かどうかは、あまり重要ではない。
それよりも自分自身で考え抜き、何かしらの答えや新たな考えを見つけることの方が大事なのだ。 
「僕には翼がないけど、翼に負けないこんな部分があるから大丈夫だ」  
そんな答えが見つかれば、自信を持って歩みを進めることができる。
人に教えられた答えではなく、自分の頭を使って見つけた自分だけの答えである。
例えば人間関係にしても、自分はこれくらいの強さだから、この人に話し掛けるのはやめておこうとか。
勝負の世界はその強さで上下関係が決まるようなところがあるから、
自分なんかが話し掛けても友達になれないと思うのだろう。
あるいは自分の実力はこの程度だから、世界チャンピオンと試合をしても仕方ないと尻込みしたりする。
それでは進化は望めないし、つまらないのではないだろうか。
話したければ話せばいいし、戦いたければ戦えばいい。そうすることで命を取られるようなことはない。
ひどく冷たくされたり、大負けして恥をかいたりする程度のことは、もしかしたらあるかもしれないが、
そうなったからと言って人生に支障は出ないはずだ。

部長とか所長とか役職が上の人に話すのは躊躇してしまうが、話したいなら話せばいい。

計算しながら進む方が近道だと思っている人が多いのかもしれない。
世渡りが上手いとか、要領がいいと言われる人がそうだろう。
しかし、僕の経験から言えば、それは間違っている。
失敗をせずに前進できることなんてほとんど稀だった。
何かを恐れ、回避し、ごまかしながら前進したとしても、上に行こうとすれば、
ほとんどの場合回避したはずの壁に結局ぶち当たらざるを得ない。
ぶち当たるというか、その壁を越えなければ結局上に行けないような仕組みになっているのだと僕は感じている。  
だとしたら、自ら足を踏み出し、どんどん失敗していった方が、よっぽど効果的だし、
より高い場所へと行ける道だと考えている。
僕もこの2、3年で、人の評価や結果は一過程のもので、それよりも自分がやっている努力の方が遥かに尊いと思えるようになった。
自分の取り組みが正しいのか、正しくないのか。
そこで煩悶してしまうのは、まだ自信がなかったからだ。
それでもめげずに、強い意志を持って続けていくと、 
「正しくないかもしれないけど、俺はこれでいい」 
そう思える日がやってきた。
例えば仕事においては、ほとんどの人にとってお金が目的だろう。
ビジネス自体に主眼を置いている人、その道を極めたいと努力している人は全体の割合から言って少ないような気がする。  
お金が目的の人にとっては、効率の悪い努力とか、荒波に 揉まれる経験は必要ないのかもしれない。
お金さえ手に入れば、自分自身の成長などなくても満足なのだから。  
しかし、ビジネスを単なる金儲けの手段ではなく生きる目的としている人、
僕のようにゲームを通して自分自身を成長させたいと願っている人は、
なにはともあれ流行っているものに身を投じるべきだ。
流行りという言葉を使うと勘違いされそうだが、
やはり最激戦地と呼ばれる戦場で戦うべきだ。  
少なくとも僕には、常に熾烈な競争が待ち受けている最前線で戦ってきたという自負がある。
(中略)
常に先頭を走るためには時代に敏感である必要があるし、流行りのもの、みんなの熱い視線を集める舞台で戦う必要がある。 
「ここなら絶対に負けない」という土俵があっても、そこに縛られている限り新境地に到達することはない。
自分の庭を平気な顔で飛び出して、多くの人たちと一緒になって一からスタートを切る。
常に厳しい競争に身を 晒していなければ、勝ち続ける力は摩耗し、劣化してしまうだろう。

流行りの技術など、どういった背景で流行っているのか知ることが大事。

一つに拘っていても仕方がない。(得意があることはいいことだけど)

ゲームを楽しみたいとか、ゲームで勝ちたいとか、その程度の気持ちではなく、もう少し別の次元で物事を考えている。
やはり、ゲームはあくまでもゲームで、本当の目的は自分自身の成長にある。
だから、あえて暗くて険しい道を行く。血のにじむような努力をして無敵の強さを手に入れても、
すぐにそれを手放さなければいけない。そのことが分かっているのに頑張れる。
快感を味わうのはほんの一瞬だが、それでも暗闇が晴れたときの自分の姿を想像するだけで前途洋々だ。
おそらく、手にできる 11、 12、 13 の強さが 10 年、 20 年と持ち越せるものであれば、頑張れる人はいると思う。
しかし、僕は違う。一瞬の快感を味わうため、どんな苦労にも前のめりで立ち向かうことができる。

この章で著者の格闘ゲームに対する考えを知ることができる。格闘ゲームに収まらず人生の生き方を示してくれる。

勝つということに対する熱量を感じ、自分もやろうという気持ちになる。

第三章 ゲームと絶望と麻雀と介護

格的に打ち込むようになってから3年で麻雀のトップレベルに立てたのは、
やはり強い人の打ち方を真似したからだと思う。

仕事のできる人から盗めるものは盗む。真似をするのは悪ではない。

型にはめて戦うということは、独自の努力をする必要がないということだ。
追求を放棄して、これはもはや仕事だから、と割り切ってしまっているようなものだ。
僕の場合はそうではなく、自分の判断に従った戦い方をしたいと思う。
そういった覚悟で臨んでいれば、型にはめて得られる利益より多くの何かを手にできると思っている。
自分の感覚を信じ、感じたままに行動したいと思う。
(中略)
結果ばかりを追求していると、型にはまった考えしか浮かばなくなる。
もっと効率のいい戦法はないか、もっと安全な戦い方はないか。
理屈を 捏ねては理由づけをする。その頃は、勝つために役に立つと思ったことは片っ端から試していた。
そのために本もたくさん読んだ。ジャンルを問わず、考え方の本や戦術の本は相当な量を読破したと思う。
しかし、読めば読むほど、考えれば考えるほどに、戦術や理屈の部分というのは人と同じようなものになってしまう。
次第に参考にならなくなり、もっと大事なことがありそうだ、という結論に至った。
結局、型にはまってしまうのは、失敗を避け、有名になりたいとか、目立ちたいとか、
誰かに認めてもらいたいと願う欲望ではないだろうか。
そして、結局はその欲望が自分自身を委縮させてしまうのだ。

結局、型にはまってしまうのは、失敗を避け、有名になりたいとか、目立ちたいとか、誰かに認めてもらいたいと願う欲望ではないだろうか。

この一文は、かなり刺さった。 もっと良いものを求めるには枠を超えたアイデアが必要だと思う。

最初は型に則るのが良いと思うが、慣れた頃から独自の考えを付加していくべき。(?)

第四章 目的と目標は違う

目の前のことに没頭し、工夫を凝らし、努力を重ねてみればいい。
そうすれば新たな思い、それこそ思いのほかポジティブな気持ちが芽生えてくるような気がする。
例えば、とにかく3年は打ち込んでみる。3年後、 
「分かった! やっぱり好きじゃない。どうしても好きになれない」
そのことに気づけただけでも、素晴らしい発見だと思う。
自分にとって何がいいのか思い悩むだけではなく、まずは行動する、
漫然と変化を待つのではなく、行動によって環境そのものを変えてしまうのだ。
とことん行動し、その分野で努力を怠らなければ、自分が本当は何がしたいのかということが少しずつ、
でも確実に見えてくる。
「このときまでに何かをしなきゃいけない」なんて目標は立てない。
ただ、目の前のことに集中して 粛々と歩んでいく。  
格闘ゲームの神と称賛されることも、世界一に輝いたことも、
ギネスブックに名前が載ったことも、僕にとっては特別なことではない。
ジャンルによって価値は違うだろうが、どれだけ素晴らしい賞を受賞しても、
次の年、その次の年も賞を獲得できるようでなければ、受賞したこと自体が成功と言えるのか疑問に思えてしまう。
それよりも自分のペースで生きて、毎日少しずつ成長して、
その結果、自然に賞賛を受ける方が、無理がないし継続できるだろうと僕は思う。

今を懸命にやる。別の本にも同じようなことが書いてあった。

自分の限界を超えた期間限定の頑張りというのは、結局は背伸びに過ぎない。
食事も満足に摂らず、睡眠時間も削るような取り組み方が長続きするはずがない。
半年後、僕はようやく復活し、大きな勘違いにも気づくことができた。

短期より長期的に見て続けられるようにする。

ガムシャラにやることと同時に昔は、ある程度の時間がないと物事を追求できないと思っていた。
できるだけ多くの時間を費やさなければ自分を高められない、と。
しかし、いまはそうは思わない。結局、大切なのは質であって量ではないということだ。
その身を削って1日 15 時間を割いたところで、成長につながる何かしらの発見があるとは限らない。
そもそも、物事の追求にそれだけの時間を割いていると睡眠時間が削られ、
満足な食事もできず、体調管理が十分ではなくなってしまう。

健康でなければ良い結果を残すことができないのは、ゲームに限らず
スポーツ、仕事、芸術、趣味など、どの世界にも共通することだろう。  
常に高いレベルをキープし、コンスタントに結果を出し続けるという観点からすると、
物事の追求に自分の限界を超えた時間を割くことは効率が良くないのではないかと思う。
例えば、短い時間でも、成長や進歩と思える小さな発見があればそれでいいだろう。

小さな一歩を重ねることが大事。

持続可能な努力のためには、目標はあくまでも目標で、目的と混同してはいけないということを知る必要がある。
ゲームでは大会への出場がひとつの目標になるだろうが、大会で勝つこと自体を目的にするとろくなことはない。
少なくとも僕の場合、結果だけを求めて出場した大会で良い成績を残せたことはない。
(中略)
誰にも負けないくらいやり込んできたという自負があれば、どんな相手にも気持ちで負けることはない。
しかし、賞金目当てで頑張ってきた人間の気持ちは驚くほど弱い。
そのことに気づいたので、目的を見誤ってはいけないと実感した。

大会というのは、日々の練習を楽しんでいる人間、自分の成長を追求している人間が、遊びというか、
お披露目の感覚で出るものではないだろうか。
大会における勝利は目標のひとつとしてはいいかもしれないが、目的であってはいけない。
そのことに気づいてからようやく、勝つことより成長し続けることを目的と考えるようになった。
ゲームを通して自分が成長し、ひいては人生を充実させる。
いまは、そのために頑張っているんだ、と。

勝つことを目的にしてはいけない。成長し続けることを目的とする。

喜びは日々の練習にこそ感じたい。 
結局、大会の結果を重視する人は、人の評価でモチベーションが変わる人と言える。
その人の強さは、別に大会があろうがなかろうが変わらない。
それなのに大会に勝って喜び、負けて悔しがるのは、人の評価、拍手喝采が原動力になっているということではないか。
そういう人は、大きな大会がなくなったらどうするのか。勝っても評価されなかったらどうするのか。
何より結果は運に左右されやすいので、負け続けたらどうするのか。
大会の結果なんかに価値を置いていたら、成長どころか精神の安定も難しい。

これはその通りだ。しかし、自分に出来ていない。 日々を楽しむ。これに勝るものはないと思う。

日々成長・変化を感じよう。

受験戦争を乗り越えてきた人から、よく「1日 15 時間以上勉強していました」という話を聞く。
なるほどすごいとは思うが、その努力を何年続けられるのだろう。
おそらく1年くらいが限界ではないだろうか。
1日 15 時間以上勉強して身につけた知識は、一時的には結果を残すかもしれない。
だが、その知識が持続するとは限らない。
限界を超えた努力で身につけた力は、本当に一瞬で失われてしまうことがある。
それでも合格という結果を得られれば救われるだろうが、1日 15 時間以上勉強して不合格に終わったら、その精神的ショックは計り知れない。
自分にとっての適量を考えるなら、 
「その努力は 10 年続けられるものなのか?」
自問自答してみるのがいい。
甘過ぎることもなく、厳し過ぎるわけでもない。 10 年続けられる努力であれば、ちょうどいいと言える。
 10 年続けられる努力かどうか考えれば、おのずと自分にとっての努力の適量、
正しい努力の度合いが見えてくるのではないだろうか

この話はなるほどなと思った。ただ若いうちにつけた知識はレバレッジが効くので良いと思う。

しかし、続かなかったり、嫌いになってしまったら元も子もない。

10年続けることは並大抵のことではないと思う。10年続けてきたものなんか今まで無いので想像がつき辛い。 一つの基準として持っていこうと思う。

大きな変化、大きな成長を求めると、それを得られなかったとき、モチベーションが低下してしまう。
だから1日1日、少しの変化で満足できる自分でありたい。継続することが大切だと感じる自分でありたい。  
飛躍的な成長や裏技、必殺技を得ようと思わない。
一気にレベルアップしなくても、一歩一歩階段を登ればそれでいいのだ。
毎日、 60 の幸せを手にするため、作業しているとき以外は逆に自信を持って休むことが大切だ。
明日の英気を養うことも、継続的な努力の内なのだから。
時間を費やすことだけで努力している気になる人が多いが、限界を超えて打ち込んでも成果は上がらない。
1日6時間なら6時間、3時間なら3時間と時間を決めて、集中する方がいい。
そして後は自信を持って休む。  
大切なのは時間を費やすことではなく、短くてもいいからそれを継続し、そのなかに変化や成長を見出すことだ。
2円安いスーパーを見つけるような小さな変化でいいから、その変化に気づき、
そこに成長を感じながら日々を過ごせたら何よりだと思う。

繰り返し同じことを言っているが、日々の成長が勝ち続けるために必要。 大きな成長ではなく、小さい一歩一歩を継続していくこと。

本当に疲労して休まざるを得ないときはあるだろうが、休憩や余暇を目標に仕事をするのは、
究極の幸せとは違うと思っているからだ。
僕も大会で結果ばかりを求めていたときは、何日か休みたいと思った。
頑張って結果を残したら、終わって良かったと 安堵 して気持ちを緩めていた。
しばらく休んで、また立ち上がって努力する感じだった。  
しかし、そういうサイクルで過ごしていたら、頑張ることが次第に苦痛になってきたのだ。
しかも頑張って結果を残して、待望の休みが来たとき楽しいかと言うと、そうではなかった。
休日のために頑張ってきたはずなのに、いざその日が来たらあまり楽しくなかったのだ。
だから、適度な頑張りを続けて毎日を心地よく過ごすことが大事なのである。
人生に区切りを求めるのではなく、継続する。

これは自分も思っていて、人生のほとんどを仕事をするわけだから仕事を好きになるのが幸せだと思う。

何かを目標に一定の時期だけ頑張っていると、目標が全てになってしまう。 そうではなく、日々努力を重ねて、日々成長を感じる。そうすれば毎日が楽しい。

いつか来る大きな幸せよりも、毎日が楽しい方が遥かに幸せ。

第五章 ゲームに感謝

チャンピオンが常に勝てるとは限らない。チャンピオンになることより、勝ち続けること、
成長し続けることの方が遥かに難しいし、価値がある。
そのことを思い知ると慢心が消え、次の日からまたチャレンジャーの気持ちで戦うことができる。
僕にとって生きることとは、チャレンジし続けること、成長し続けることだ。
成長を諦めて惰性で過ごす姿は、生きているとはいえ生き生きしているとは言えない。
常にチャレンジして、たくさん失敗すればいいと思う。
ときにはどん底を味わうような苦い経験もするだろうが、とりわけ若いうちはいくらでも取り返せる。
若い頃は気力も充実しているし体力もあるから、きっと立ち直れる。
もちろん、年を取ったら失敗できないなんてことはない。  
若いうちに失敗した方がいいのではなく、若いうちから失敗した方がいいだけだ。  
僕はどんどん失敗したいと思っている。5年後、 10 年後もチャレンジと失敗を繰り返していたいと思う。  
もちろん、同じ失敗を繰り返すつもりはない。「よし、失敗した」と喜ぶこともない。
ただし、失敗することを恐れない人間でありたい。そのためにも、若いうちから失敗した方がいい。

楽する人生より充実した人生を歩みたい。 失敗を恐れず挑戦して経験していく。何度も繰り返す。

失敗を恐れない人間でありたい

一番良くないのは、どの階段を登ればいいか迷っている状態が延々と続くことだ。
階段の下で正解の道を吟味し思い悩んでいるだけの人間よりも、
間違った階段でもいいからとりあえず登っている人間の方がはるかに上達が早いと思う。

自分はこれやりがちだ。止まって何をするか考えてしまう。とにかく全部やってみる勢いでやるのが良いのかも?

自らの積極的なチャレンジによる結果の失敗を笑うなら、それは嘲笑ではなく快活な豪笑であるべきだろう。
失敗を見てバカにするような人間も、1年後、2年後、積極的なチャレンジを続ける姿を見れば笑えなくなる。
そして「失敗したけど、あのチャレンジはすごかったよね」と賞賛の言葉を投げ掛けてくるはずだ。

笑われても馬鹿にされても自分の芯はブレずにやる。挑戦をやめない。

最後に

何事も世界一になることは並大抵のものではない。「日々変化すること」これが大切だ。

著者の梅原さんの思考に触れることで、自分の熱量も刺激される良著。めちゃくちゃ安いので読んで欲しい。

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